なんとなく気づいてしまったことがある。
僕らは普段生活保護をどう思うのだろうか?クズだと思うのだろうか?同情しているのだろうか?それとも・・・勝ち組と思うのか。
ついこの前、北海道の最低賃金が生活保護を上回ったという内容が起きている。
が、最近になって解消されたという報道で本当に大丈夫になったという人はいるのだろうか?そんな訳がない。なぜなら医療扶助などの保障などもあるからで、最低賃金に近い人たちに対しての対策は全く無いのである。
よく、社会は自己責任論で済ます人間もいる。努力しなかった人としてのレッテルが実に気持ちよく響く人間が多いようだ。特に公務員という言葉はたびたび論争の中心に追いやられる。だからこそ生活保護という存在は最後のセーフティネットという存在として度々問われることもある。そこで一番の中心の的が生活保護の存在を認めている人とそれがクズだと認識する人の差である。
こういった事に対しての答えは
・殆どが働くのは当たり前。
・正直羨ましいかもというネットの声
・誹謗中傷の数々
といった内容だ。自分はこの考えしか出ないことが非常に恐怖に思える内容だった。初めてネットの内容を信じるのは意味がわからないと思った事である。「生活保護のゴミ」という言葉を検索して欲しい。いかにネットが幼稚なものかを知ることが出来た。ここで僕たちは働くことという行為自体でしか批判していない事に気付く。
まず働けという言葉。この言葉に加えて労働の義務という言葉を付け加える人もいるが、まずこの点については疑問点がある。
この規定は、立法によって国民へのあらゆる強制労働を許容するものではなく(日本国憲法第18条)、違反者に対する具体的な罰則を課するよう立法や行政に義務付ける性質のものでもない。また、不動産収入などの不労所得や金利生活者の存在を認めないものではない。ただ、宮沢俊義は「それを不労所得を生活の根拠にまで濫用することが許されるなら憲法の建前とする『社会国家の理念』は、空文に帰してしまう。」「ほかの人の生存権(日本国憲法第25条)を保障する目的のために、そのかぎりで私有財産制に対してなんらかの制限を加えることも、当然許されると見るべきであろう。」としていて、我が国の伝統精神である「勤勉の精神」ではないとしている。日本国憲法下の自由主義・資本主義体制でも解釈と運用の仕方によっては社会主義の理想は十分実現できると理解している[17]。
そもそも自由主義を掲げる国の憲法に「勤労の義務」を規定することはふさわしくないとの意見がある。「納税の義務(日本国憲法第30条)」を規定していれば「勤勉の精神」は十分確保できるものであるとしている[18]。
引用 wikipedia
という意見もある。つまりは、国家が適切な施策を考える事こそが適切な意見であり、生活保護者を誹謗する人は聊か知識が乏しいとも思えてしまう。
つまりは、日本人の多くに労働は義務という負担を学生の時点から植え付けていることが問題ではないかというのが私の考えである。別に労働するなという意味ではなく、自身の向上の為にという感情を育てることが今の教育では不十分なのではないか?という事だ。
万人が教育を受け同じように育つというのは違和感がある。
日本は元々教育を万人に受けさせるというのが一番優秀な点なのだが、全ての人間がそれで優秀になれるわけではない。努力もまた才能だと感じさせるものである。
生活保護を受ける人にも寛容に受け入れる心の余裕は全く今の社会ではなくなっている。手取りはある意味では殆ど生活保護に迫っている。これでは生活保護を容認できる感情になれるはずが無い。上手く生きれない人に手を僕たちは助け同じ日本人として生きることを選べる日は来るのだろうか?レッテルや就職に対しての勝ち組精神を植え付ける感情では到底無理なものではあるが、そういった人たちが働きたいと思える・生きたいと思える社会や考え方を作り上げるのが社会人としての本懐な気がするのである。
向上心がない人が受給しているなら僕達がそういう世界を作ればいいのではないか。それがむりなら身内だけでも変えられないのか?友達は?親は?
そういう人を生み出していたのは紛れも無く自分達の世代でもあった。
他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。自己変革でアベノミクスが庶民に恩恵を得れるように努力しないといけない・・・。
余談
給料で勝ち負けを決めるのであれば、私は介護の給料を上げて欲しいと思うこのごろ。